【追悼】大横綱 千代の富士(九重親方)の通算成績や筆跡まとめ!死因は?家族構成も
大相撲の元横綱、千代の富士の九重親方が東京都内の病院で死去した。61歳だった。
大相撲で史上3位の優勝31回を誇り、昭和から平成にかけて一時代を築いた元横綱千代の富士の九重親方。
体重120キロ台の小兵ながら53連勝、通算1045勝、相撲界初の国民栄誉賞など数々の栄光を手にした。
これまでわずか4人にしか与えられていない、顕著な功績による一代年寄も日本相撲協会から認証されています。

四股名:千代の富士 貢
本名:秋元 貢(あきもと みつぐ)
愛称:ウルフ、小さな大横綱
生年月日:1955年6月1日
没年月日:2016年7月31日(満61歳没)
出身:北海道松前郡福島町
身長:183cm
体重:126kg
血液型:A型
BMI:37.62
所属部屋:九重部屋
得意技:右四つ、寄り、上手投げ
家族
妻:秋元久美子(くみこ)
長女:秋元優(ゆう)
次女:秋元梢(こずえ)
長男:秋元剛(つよし)
目次
死因は膵臓癌(すいぞうがん)
2015年6月に元千代の富士の九重親方は、すい臓がんの手術を行って、約1ヶ月間の入院の後に退院しています。
この時に、すい臓がんが原因で13キロ落ちたといっていた事から、激やせがネット上などでも噂になり、心配されるようになりますが、本人は大丈夫だと言っていたようで、親方としての職務に復帰して稽古場などにも顔を出していたようです。
しかし、最近がんの転移が見つかり、闘病を続けていたそうです。
千代の富士の強さの秘密
子供の頃から実家の漁業を手伝って自然に足腰が鍛えられ、中学生では運動神経が抜群だった。特に陸上競技では走り高跳び・三段跳びの地方大会で優勝し、「オリンピック選手もいける」と言われるほどだった。
昭和45年秋場所初土俵。100キロ足らずの軽量で、両肩の脱臼と再三の故障にもかかわらず、同49年九州場所で新十両。同50年秋場所で新入幕を果たしたが、右上腕の筋を切り幕下まで転落。
同53年初場所再入幕し、名古屋場所で新三役になったが、右肩脱臼で十両に転落した。
幕内に定着したと思われた1979年3月場所の播竜山戦で右肩を脱臼して途中休場し、入院して脱臼との戦いをまたも強いられることとなる。
これは全治1年、手術すれば2年という重大な怪我であり、「もし2カ月で治したいなら筋力トレーニングを行い肩の周辺を筋肉で固めなさい。」と医師に勧められる。
この肩を筋肉で固めるという対策に活路を見出し、こうして毎日20キロのダンベルの上げ下ろしと500回の腕立て伏せ・ウェイトトレーニングに励んで脱臼を克服した。
このトレーニングで肩周りに“筋肉のよろい”をつけた。左前みつを引いての速攻相撲を完成させると花が開いた。
まるでプロレスラーのような千代の富士の肉体美
背中、お尻、太腿、ふくらはぎ。いずれの筋肉も発達しており、腕力に頼らない取り組みが可能だった。
関脇を2場所で突破、大関を3場所で駆け抜け、同56年名古屋場所後に横綱昇進。小兵ながら左前まわしを引いての寄り、豪快な上手投げで土俵に君臨し、「小さな大横綱」と称された。
サンケイスポーツより
千代の富士の生い立ちから入門まで
1955年に北海道松前郡福島町で漁師を営む家に生まれた。当時は実は、相撲は大嫌いだったという。
1年生のときに盲腸炎の手術を受けたが、秋元少年の腹の筋肉が厚いために手こずって予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまい、終了直前に麻酔が切れてしまった。
それでも必死に耐え続ける体格の良い秋元少年を見た病院長が見出し、千代の山の入門の世話をしたことがある若狭龍太郎に連絡した。その連絡を受けた九重(千代の山)から直々に勧誘されたが、自身はあまり気が乗らず、両親も入門に大反対したため一旦は断わっていた。
それでも諦めない九重は秋元少年に対して「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機に乗っけてあげるよ」「中学の間だけでも(相撲を)やってみて、後のことを考えたらどうだ?」などと持ちかけると、結局、その飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めた。
wikipediaより
千代の富士の歴代 名勝負!北の海・隆の里・小錦・寺尾・貴花田戦まで!引退会見の動画もあり >>>
キン肉マンで漫画のモデルにも
千代の富士は、細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から若い女性や子供まで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得ていた。一気に大関・横綱への昇進を決めた1981年は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。
異名の「ウルフ」については、ちゃんこ番として魚を捌いているところを見た九重が「狼みたいだな」と言ったことから付けられた。当初は狼と呼ばれていたものがいつしか変化した。
細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口などの特徴から「ウルフ」の異名がピッタリで広く認知されることとなった。
ゆでたまごの漫画『キン肉マン』に登場する超人「ウルフマン」は千代の富士がモデルである。
またTVでも半生う綴った千代の富士物語が放送されるなど、当時のフィーバーぶりが伺える。
国民栄誉賞受賞
1989年6月には、同年2月に誕生したばかりの三女をSIDS(乳幼児突然死症候群)で生後僅か4か月足らずで亡くす不幸に見舞われてしまう。
千代の富士の家族や自身も精神的なショックが大きく、師匠の九重でさえも「もう相撲は取れないのではないか」と思われる程だったという。
しかしその直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、12勝3敗の成績ながらも千秋楽の優勝決定戦では、奇しくも同部屋の弟弟子だった横綱北勝海を下して、奇跡の優勝を果たした。
同年9月場所には通算勝ち星の新記録を達成し、同年9月28日に大相撲で初となる「国民栄誉賞」の受賞が決定した。この日は先代九重(千代の山)の13回忌が行われた日でもあり、千代の富士は「苦労をかけた師匠に良い報告ができます」と言った。
千代の富士 現役引退の本当の理由
世間では、貴花田に敗れた事が最大の理由とされているが、実はそうではない。
1990年1月場所には優勝回数を30と大台に乗せた。同年3月場所の7日目には花ノ国戦に勝利して前人未踏だった通算1000勝の大記録を達成した。
しかし、同年5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、旭富士の横綱昇進の引き立て役になった。
1991年1月場所初日に幕内通算805勝目を挙げ、当時の大相撲史上単独1位(現在は史上2位)の記録を達成したが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。
翌場所も全休した。復帰場所となった1991年5月場所は初日に、当時新鋭だった貴花田(のち貴乃花)と対戦するが、まわしが取れず頭をつけられて寄り切りで敗れた。
この時は再燃した引退説を否定、翌日の板井戦は勝利したものの納得いく相撲とは程遠く、「もう1敗したら引退する」との決意を固めて、3日目の貴闘力戦に挑んだがとったりで完敗。
この貴闘力戦の取組を最後に、「気力・体力の限界」として当日の夜九重部屋にて緊急記者会見で現役引退を表明、「小さな大横綱」として歴史に名を刻んだその相撲人生を終えた。
日本相撲協会はその理事会において功績顕著として全会一致で一代年寄を認めたが、将来的に九重部屋を継ぐことが決まっていたため、陣幕親方(元前頭1・嶋錦)と自身が所有していた年寄・八角を名跡交換したため、年寄・陣幕を襲名し九重部屋の部屋付きの親方となった。
千代の富士 引退会見のコメント全文
「皆様、長い間応援して下さり、有り難う御座いました。月並みの引退ですが…」と語ったが、その後思わず言葉に詰まり目を赤くして、千代の富士が涙をこらえながら発した。
背中を丸めて白いハンカチで鼻を押さえた。「体力の限界……」まで言ったあと、次の言葉まで数秒。万感の思いが突き上げてきた。「気力もなくなり引退することになりました」とノドの奥から絞り出すように言った。
その一言は、本当に精魂燃え尽きた男の言葉であった。
千代の富士の引退相撲・断髪式は1992年1月場所後に行われた。
wikipediaより
千代の富士の通算成績まとめ
通算成績:1045勝437敗159休(通算勝ち星は歴代2位)勝率.705
優勝回数:31回(白鵬、大鵬に次ぎ、歴代3位)
(1981年 1月場所、7月場所、11月場所
1982年 3月場所、5月場所、7月場所、11月場所
1983年 3月場所、11月場所
1984年 11月場所
1985年 1月場所、5月場所、9月場所、11月場所
1986年 1月場所、5月場所、7月場所、9月場所、11月場所
1987年 1月場所、7月場所、11月場所
1988年 5月場所、7月場所、9月場所、11月場所
1989年 3月場所、7月場所、9月場所
1990年 1月場所、11月場所)
全勝優勝:7回(北の湖と並んで歴代4位タイ)
連覇:5連覇(1986年5月場所 – 1987年1月場所)
場所別優勝回数(東京場所:13回(蔵前国技館:2回、両国国技館:11回)、地方場所:18回)
初場所:5回
春場所:3回
夏場所:4回
名古屋場所:6回
秋場所:4回
九州場所:9回(1981年 – 1988年まで8連覇)
幕下優勝:1回(1974年9月場所)
幕内成績:807勝253敗144休(幕内勝ち星は歴代3位)勝率.761
横綱成績:625勝112敗137休(横綱勝ち星は歴代3位)勝率.848
通算在位:125場所
幕内在位:81場所(引退当時歴代3位、現在10位)
横綱在位:59場所(北の湖に次いで歴代2位)
大関在位:3場所
三役在位:5場所(関脇2場所、小結3場所)
三賞・金星
三賞:7回
殊勲賞:1回(1981年1月場所)
敢闘賞:1回(1978年5月場所)
技能賞:5回(1980年3月場所、1980年7月場所、1980年9月場所、1980年11月場所、1981年1月場所)
wikipediaより
奥さんや子供は?千代の富士の家族
1982年9月30日に3000人の招待客を集めてホテル・ニューオータニで催された結婚披露宴は当時、大きな話題になりました。
千代の富士の奥さんは一般の方のようで、旧姓:進藤久美子さんという女性です。
親方よりも4歳年下なので、現在の年齢は57歳というところでしょうか。
進藤久美子さんと親方との出会いは福岡のスナックと言われています。
それから2年ほどの交際を経て結婚されました。
元福岡市長だった進藤一馬さんの親戚筋に当たられる方だそうです。
昔はライオンの洗剤のCMにも出演されていたのです。
そんな久美子さんと九重親方の間には現在3人の子供さんがおられます。
長男、長女、次女、そしてもう一人娘さんがおられたのですが、乳幼児突然死症候群でお亡くなりになられています。
長女:秋元優(ゆう)さん
次女:秋元梢(こずえ)さん
長男:秋元剛(つよし)さん
兄妹の写真
美男美女ですねー!
長女:秋元優(ゆう)さん
秋元家の長女であり、Faline Tokyoのショップスタッフとして働きつつモデルやDJとしても活動する秋元優さん。梢さんと同じく切れ長の美しい目が印象的です。
次女:秋元梢(こずえ)さん
次女はモデルの秋元梢さんは、1987年7月27日生まれで、現在29歳。
秋元梢さんからの追悼コメント
「最期は苦しむことなく、家族全員に看取られて、息を引き取りました」と最期の様子を伝え「今まで父を応援してくれた皆さまに感謝申し上げます」と謝辞を記した。
最後は「父の娘に生まれて、幸せです。秋元梢」と父への感謝をつづった。
とても良いお父さんだったのでしょう、父が千代の富士ですので誇りですよね。
千代の富士(九重親方)の息子は?
実は息子さんもおられて秋元剛さん
セレクトショップADDITION ADELAIDEのPR、communications Directorをされている秋元剛さん。
一時はお父様の後をついで力士に‥という話もあったようですが、ファッションの世界に惹かれてアパレル関係の仕事に。現在はモデルとしても活躍されています。
お父さんに似ていますね!
「身長175cm、引き締まったバランスのいいスタイルで、ワイルドな雰囲気のモテメンという事です。」
画像出店:出典: https://www.instagram.com
各界からの追悼コメントまとめ
貴乃花親方
「いまは厳粛に静粛に受け止めています。現役時代には胸をお借りし、鋼の肉体に額をおそるおそる当てたことを忘れてはいません。まだ下積み時代に横綱から、早く上に上がってこいと激励のお言葉をたまわったことも忘れてはいません。いまはご遺族に哀悼の意をささげております」
元横綱朝青龍
「悲しい悲しいな涙が止まらない…憧れの力士、角界の神様、横綱たちの横綱よ~~悲しいな。親方よ 夏にモンゴルに来てイトウ釣る約束は?悲しいな涙」
横綱日馬富士
「言葉が出ない。何て言えばいいか…。鳥肌が立っています。大好きな大好きな方。あの方の相撲を見て勇気をもらっていた。小さい体でもこういう相撲を取ればいいんだと強い気持ちにさせてくれた。よくかわいがってもらいました」
佐ノ山親方(元大関千代大海)
「師匠が好きで憧れの力士だった。本当にしみじみと(悲しみを)感じている。名古屋場所中に稽古場で指導内容を話したのが最後の会話。ご遺体の手を握りながら『今までありがとうございました』と言った」
玉ノ井親方(元大関栃東)
「すごい人だった。存在が違った。スターですし、大きな存在を亡くした。すごい横綱だった。急なことで、悲しいの一言。気持ちを引き継いでしっかり頑張りたい」
尾車親方(元大関琴風)
「年齢は2つ上、まさに戦友でした。初顔は78年夏、私が寄り切りで勝ち、その後5連勝しました。すると突然、佐渡ケ嶽部屋に出稽古に来るようになりました。東京にいても、巡業にいても、いつも胸を合わせました。右手の指が裂ける大けがも気がつかないほどでした。鋭い当たりから中に入って左前まわしを取られたら体が浮いてしまい、つま先立ちの状態になるほどでした。そして、その後は11連敗です。本当に強かったです。これからは協会のご意見番としてアドバイスをいただきかっただけに残念です」
芝田山親方(元横綱大乃国)
「こんなに早く亡くなるとは思っていなかった。当時は千代の富士、同部屋の北勝海がいて、一門が違う大乃国がいた。そういう相手がいたから、土俵を沸かせられたのではと思う。相四つだったので、なんとか先に左の上手を取らせないように研究した」
ソフトバンク王貞治球団会長
「九重親方の訃報に接し、大変残念でなりません。土俵での圧倒的な強さで、31回の優勝など数々の記録を打ち立て、相撲界を大いに沸かせてくれました。一時代を築いた心に残る横綱でした。謹んでご冥福をお祈りします」
日本ハム栗山英樹監督
「食事をしたことがあり、おおらかで大きな人だった。けがをトレーニングで克服したのを(かつて教壇に立っていた)大学の授業でも話したことがある。ショックで残念」
楽天梨田昌孝監督
「悪いのは知っていたが、すごくショック。体は小さいが強いし、スケールの大きさがあった。ゴルフではアプローチもパットもうまい。酒(の飲み方)も豪快だった」
ロッテ伊東勤監督
「われわれの子どものころのヒーローだった。相撲人気が復活して、盛り上がってきている。ヒーローが亡くなって残念」
横浜FCカズ(三浦知良)
「何回かお会いしたことがあります。まだお若い。残念ですね」
元NHKアナウンサー杉山邦博さん
「努力の人で、とにかく強かった。力士になった当初は体が小さいのに上手投げにこだわって相撲を取っていたため、肩の脱臼が相次いだ。そこから自分を変え、一直線に前に出るスタイルにしたことが歴史に残る『小さな大横綱』の誕生につながった。自分を変えることはなかなか至難の業だが、見事に成し遂げた。自分と向き合う強い気持ちを持っていたからだろう。横綱としても一人の人間としても誇り高かった。最大級の賛辞を贈りたい」
八角親方(元横綱北勝海)
「あまりにもショックでコメントのしようがない」
尾車親方(元大関琴風)
「年齢は二つ上、まさに戦友でした。東京にいても巡業でもいつも胸を合わせました。本当に強かった」
二所ノ関親方(元大関若嶋津)
「寂しい。何とも言いようがない気持ち」
浅香山親方(元大関魁皇)
「九重親方の1千勝は私のものと比べるものではない。あの体で大きな相手を倒したのはすごい。レベルが違う。本当に悲しい」
元関脇旭天鵬 大島親方
「すごい人すぎて恐れ多い存在だったが、2004年ソウル公演の際に移動バスで『頑張れよ』と優しく声をかけてもらった。モンゴルでも悲しみが広がっている」と話した。
春日野親方(元関脇・栃乃和歌)
手が届かない偉大な横綱と対戦できたことは忘れられない。初めて対戦した時の立ち合いの鋭さ、速さは、今までにない感覚だった。
芝田山親方(元横綱・大乃国)
体重は圧倒的に自分の方が多かったが、力が強かった。(連勝を53で止めた一番について)優勝がかかった一番ではなかったが自分のプライドもあった。負けっ放しで自分のプライドもあった。何とかしないとと思って臨んだ結果だった。当時は横綱に千代の富士がいて同部屋の北勝海がいて一門が違う大乃国がいた。そういう相手がいたから土俵を沸かせられたのではないかと思う。
浅香山親方(元大関・魁皇)
北の湖理事長もそうだったが、九重親方も相撲界のためにと思って無理をされていたのだと思う。九重親方の1000勝は私のものと比べるものではない。九重親方の体で大きな体の相手を倒したのは凄い。レベルが違う。
この記事が気に入ったら
いいね!しよう
最新情報をお届けします
Twitterでsponkyをフォローしよう!
Follow @ツイッターアカウント名